『Cloud クラウド』:見えない悪意の恐怖とその現実への衝撃
『Cloud クラウド』:見えない悪意の恐怖
日々激変する世界の中で、私たちはどのように生きていけばよいのか。どのような生き方があるのか。映画ライターの月永理絵さんが、毎月公開される新作映画を通じて、さまざまな変化に直面する私たちの「生き方」を見つめていきます。今回は2024年9月27日に公開された映画『Cloud クラウド』から、「見えない悪意」について考察します。
あらすじ
クリーニング工場で働きながら、副業で転売をしている吉井(菅田将暉)。先輩の村岡(窪田正孝)からの儲け話や、工場の上司・滝本(荒川良々)からの昇進話も断り、吉井は恋人の秋子(古川琴音)と一緒に郊外の一軒家に引っ越し、転売屋としての事業拡大を狙う。しかし、この引っ越しを機に、彼の周囲で不可解な出来事が頻発し始める。転売屋に向けられた悪意が徐々に増殖し、やがて彼に襲いかかる。
黒沢清監督の魅力
黒沢清監督の映画に登場する人々は、何を考えているのかよくわからない。事件を追う刑事や、家族の復讐を果たそうとする謎の人物が主人公の場合が多い。彼らはたいてい、何が起きようと顔色をほとんど変えず、泣き叫んだりもせず、ただ黙々と事件を追いかけたり、復讐を果たしたりする。このわからなさこそが、黒沢映画の最大の魅力ともいえる。
吉井の性格
黒沢監督の新作『Cloud クラウド』の主人公、菅田将暉演じる吉井もまた、何を考えているのかよくわからない人として登場する。彼はいつも無表情で、恋人と話をしていても、会社の上司に昇進を打診されても、慇懃無礼に振る舞うだけ。一方、転売屋としての仕事は黙々とこなしている。売れ残ったものを安く買いたたき、ときには姑息な手で商品を買い占める。そのせいで他人から恨まれようと何食わぬ顔を突き通す。感情的にならないのは、転売屋としてはぴったりの性格かもしれない。
悪意の増殖
しかし、そんな彼の冷静さが、ある事態を引き起こす。本人がまったく気付かぬうちに、彼に恨みを抱く人たちがじわじわと増え続け、いつしかネット上でつながりあっていた。増殖した悪意はやがて彼に襲いかかる。見えない悪意が集結し、恐ろしい結果を生み出す。そうこの映画を形容するのは簡単だ。
悪意が「見える」瞬間
しかし、何かがおかしい。悪意が「見える」瞬間というのも、吉井に悪意を持つ人々もまた、感情の読み取れない不気味な人たちなのだ。彼らひとりひとりのキャラクターは個性的で、それぞれに吉井に対して憎悪を抱いたきっかけや理由は、一応は説明される。しかし、ひとりひとりの顔を見ても、おそろしい憎悪や殺意のようなものは見当たらない。彼らは顔色ひとつ変えず、ときには楽しげに笑いながら、吉井をどんなふうに痛ぶるか計画を練る。
彼らが暴力への衝動に駆られたのには、どんな背景があるのだろう。映画を見ていても、実のところよくわからない。代わりに私たちは、いくつかの小さな、しかし決定的な瞬間を目にする。たとえば、誰かが「あいつ、殺す」という言葉を口に出すときや、ネット上に罵詈雑言を打ち込むときだったりする。あいつが憎い、痛めつけたいという欲望が言語化されることで、その瞬間、曖昧だった感情がはっきりとした形になって出現する。
つまり、この映画が描くのは、ネットに増殖する「見えない悪意」のようでいて、実のところ、悪意が「見える」形となって現実に現れた瞬間なのだ。そして、それはまたたくまに暴力へと結びつく。
現実の恐怖
誰かへの誹謗中傷が山のように湧いてきたり、真偽の定まらない噂が真実のように一人歩きしていったり、ネット上で発生した何かがまたたくまに広がっていく怖さは、私自身、日々SNSなどで体感している。そんなとき、つい「見えないからこそ怖い」と思いがちだけれど、その裏には、憎悪に満ちた言葉を書き込んだり、それを拡散したり、実際に「見える」形で悪意が発生しているという事実を忘れてはいけない。一度「見える」形で表に出してしまったものは、どれほど後悔しようが、そんなつもりはなかったと泣きつこうが、もう取り返しがつかないのだから。
暴力の瞬間
吉井に襲いかかる人々の顔が、妙に心に残る。彼らはどこかぼんやりとした表情を浮かべていて、まるでどんどん凶暴になっていく自分に戸惑っているようだ。いったい何が起きているのか、自分自身ですらわからないというように。暴力とは案外そんなものかもしれない。ほんのちょっとしたことが引き金になり、当人たちもわからないうちに、後戻りができないところにまで至ってしまう。
映画の展開
ネット社会の闇をテーマにしたサスペンス映画のように始まった映画は、後半から、突如として姿を変え、純粋なアクション映画として進行していく。銃撃戦が始まり、人々は疾走する。おもしろいことに、ここから吉井という人物の見え方が大きく変わり始める。彼は、突然の事態に顔色を変え、驚き狼狽する。おろおろと釈明をし、恐怖の表情を浮かべ、身を守るため必死で逃げ惑う。暴力によって、それまで見えていなかった彼の感情が、否応なく引き出されていく。
暴力の理不尽さ
暴力が発生するのが唐突であるように、人はまたたくまに暴力に慣れてしまう。一度銃を撃ってしまえば、人はあっというまにその行為に慣れ、いつしか攻守が交換していることにも気づかない。その理不尽さ、わからなさこそが人々の恐怖を駆り立てる。現代の社会に唐突に姿を現した『Cloud クラウド』は、実におそろしい映画だ。そのおそろしさが抜群におもしろい、という点も踏まえて、やはりこの映画はおそろしい。