東京メトロの民営化とその成功:完全民営化への道のり

東京メトロの民営化とその成功:完全民営化への道のり

東京メトロの誕生と変遷

東京地下鉄(東京メトロ)は、2004年(平成16年)に設立されて以来、東京都区部やその周辺地域(埼玉県と千葉県の一部)で地下鉄を運営し、成長を続けてきました。そして、ついに株式上場の具体的な日程が発表されました。

9月20日、東京証券取引所は同社の上場を承認し、10月23日にプライム市場への上場が決まりました。これは約6年ぶりの大型上場となります。売り出し株数は発行済み株式の半分に当たる2億9050万株で、想定価格は1株1100円。総額3195億円の大型IPO(新規株式公開)になる見込みです。

営団から株式会社、そして株式上場へと至るこの変遷にはどのような経緯があったのでしょうか。本短期連載(3回)では、東京メトロの民営化プロセスやその効果、今後の課題について詳しく見ていきます。

東京メトロの前身

東京メトロの前身は、「帝都高速度交通営団」です。この「営団」は「経営財団」の略称です。この組織は、1941年以降、戦争経済を遂行するために官民協力による経済統制を進める中で生まれました。営団には、帝都高速度交通営団(鉄道省所管)のほか、住宅営団(厚生省所管)や農地開発営団(農林水産省所管)なども存在していました。

交通営団の目的は東京の地下鉄整備であり、それまで民間の東京地下鉄道や東京高速鉄道が担っていた事業を交通営団が整備し、東京市が管理する体制が築かれました。

戦時中に設立された多くの営団は、戦後の連合国軍総司令部(GHQ)による経済民主化政策の影響で解体や改組を迫られました。しかし、交通営団は例外的に存続が許された数少ない組織の一つとなりました。その理由は、当時「交通再編が世界的に流行していた」ことなどと関連があるとされるが、明確な資料はなく詳細は不明です。

ただし、名称は変わらなかったものの、その実態は大きく変化しました。民間出資が排除され、国鉄や東京都が出資する公団や公社に似た公的な企業体となりました。

特殊法人改革の流れ

特殊法人の民営化が検討され始めたのは1980年代からです。1980年代初頭、日本は深刻な財政問題に直面していました。1970年代に起きた二度の石油ショックは、高度経済成長期の終わりを告げ、日本経済に大きな打撃を与えました。政府の税収は伸び悩み、一方で社会保障費は増え続けていました。その結果、財政赤字が急速に拡大し、1975年(昭和50年)には特例公債(赤字国債)の発行が始まりました。

さらに、行政の肥大化や非効率性に対する批判も高まっていました。戦後の復興期から高度成長期にかけて、政府の役割は拡大し、多くの特殊法人が設立されました。しかし、経済成長が鈍化する中で、これらの組織の存在意義や効率性に疑問が持たれるようになりました。

こうした背景を受けて、1981年3月に鈴木善幸内閣は第二次臨時行政調査会(第2次臨調)を設置し、会長には経団連名誉会長の土光敏夫が就任しました。増税なき財政再建をスローガンに、行政改革を進めることが目的でした。

土光敏夫は、東芝の再建や経団連会長としての実績から強力なリーダーシップが期待されていました。彼のもとで臨調は、特殊法人の整理統合、行政組織の簡素化、許認可手続きの見直し、公務員制度の改革など、多岐にわたる課題に取り組みました。

こうした行政改革は世界的な潮流であり、1979年に誕生したイギリスのサッチャー政権による一連の改革は「サッチャリズム」として知られ、世界に大きな影響を与えました。また、1981年に就任した米国のレーガン大統領は「レーガノミクス」を展開し、西側諸国では政府の役割を縮小し、市場原理を重視する政策が強力に推進されていました。

1983年に設置された臨時行政改革推進審議会(行革審)は、第2次臨調の後継機関として特殊法人の改革を特に重視しました。国鉄だけでなく、日本航空やNHKの経営形態も検討課題となりました。この中で、交通営団も民営化を前提とした改革の対象とされました。

財政依存の特殊状況

1986年(昭和61年)に運輸省は最初の民営化案を示しました。この案は次の内容から成り立っています。

  • 5年以内に株式会社にする。
  • その後、第三者割当増資を実施して民間資本を導入する。
  • 営団の新線建設が完了した時点で、国と東京都の株式を放出する。

当時、交通営団の資本金は541億円で、国鉄が54%、東京都が46%を所有していました。計画では、まず国が国鉄所有分を引き受け、その後第三者割当増資で民間資本を導入する。最終的に新線建設が完了した後に国と東京都の株式を売却し、完全民営化を目指すという内容でした。

しかし、交通営団の建設費用による累積赤字が民営化のハードルとなっていました。そのため、金融機関や私鉄などへの第三者割当増資を経て経営の安定化を図り、その後完全民営化する形が模索されました。

しかし、このプランにはいくつかの課題がありました。交通営団の事業は財政投融資に大きく依存していました。1988年度では、総事業費838億円のうち8割超の680億円が財政投融資対象工事でした。つまり、営団は地下鉄の運営と同時に「公的資金で新線建設を行う」特殊な立場にありました。民営化によってこの財政投融資の枠組みから外れる場合、資金調達の仕組みを根本から変える必要がありました。また、長期債務の存在が株式上場の障害になるという懸念も浮上していました。

これらの課題を踏まえて、1987年の臨時行政改革推進審議会は、5年以内に特殊会社に改組し、その後完全民営化するという段階的な方針を示しました。この方針は閣議決定で追認されましたが、民営化の動きは停滞してしまいました。停滞の原因は複合的で、長期債務に加え、1992年(平成4年)から1995年の赤字計上が影響しました。さらに、民営化後の経営方針に対する懸念も大きかった。

交通営団民営化の転機

民営化の課題を理解するためには、国鉄の分割民営化で誕生したJR東日本との比較が有効です。JR東日本は1993年(平成5年)10月に上場を果たしましたが、この時点で国鉄から引き継いだ膨大な長期債務を抱えていました。それでも上場できたのは、運賃収入に加え、駅ビルの再開発など「多角的で有望な経営方針」があったからです。

一方、交通営団の状況は異なっていました。膨大な路線網があり運賃収入は多かったが、JR東日本のような大規模な不動産開発の余地は少なく、経営の多角化が難しいと考えられていました。また、出資者である東京都が都営地下鉄との一元化を繰り返し要求していたため、経営の自由度に対する懸念も大きかったです。

こうした理由で、民営化は先送りされていましたが、2001年12月に小泉純一郎内閣が特殊法人改革基本法を閣議決定したことで状況が一変しました。この法律は特殊法人や認可法人の改革を包括的に進めるもので、交通営団もその対象となりました。そして2004年、民営化され、東京地下鉄に改組されました。

民営化の実現

では、なぜこのタイミングで交通営団の民営化が可能になったのでしょうか。そのカギは、地下鉄13号線(現在の副都心線)の建設計画にありました。2007年度に予定されていた同線の完成により、新規の大規模投資が一段落すると見込まれました。また、これにともなって長期債務の返済見通しも立ってきた。

民営化が決定したことで、交通営団は経営方針の大きな転換期を迎えました。利用者サービスの向上が最重要課題とされ、さまざまな改善策が検討されました。その一環として、駅構内へのコンビニエンスストアの出店が進められました。

「幸福な民営化」の実態

しかし、最も象徴的な変化は意外にもささいなもので、「全駅のトイレにトイレットペーパーを常備する」取り組みでした。この一見小さな変更は、利用者の日常に直接影響を与える改善でした。まさに、民営化による「利用者第一」の姿勢を誰もが実感できる形で示したといえます。

当時の『読売新聞』は、この民営化の成功を「幸福な民営化」と表現し、その理由を次のように記しています。

「ハッピーな民営化を実現できる大きな理由は、不採算新線の建設を押しつける族議員のまとわりつきを、ほぼ避けられたためといえる。道路関係公団や旧国鉄と異なり、進めたくもない新線建設のための不要な出費に、そう悩まされずに済んできたのである。東京一極集中で利用者が増え続けたので、結果として、建設した新線が、需要を超える過剰投資に陥ることもなかった。民営化で経営のゆとりは広がるだろうが、公共交通機関である点に変わりはない。経営の余裕は、運賃割引や利用者サービスの向上など、公共交通機関としての責務を果たすことに充てることが求められる」(『読売新聞』2004年4月1日付朝刊)

これほど絶賛されているにもかかわらず、株式上場による完全民営化がなぜ実現しなかったのか。次回、その理由について解説していきます。