昭和の絶頂期を飾った伝説のストリッパー、一条さゆり:彼女の人生と社会現象を紐解く

昭和の絶頂期を飾った伝説のストリッパー、一条さゆり:彼女の人生と社会現象を紐解く

1960年代、ストリップの世界で頂点に立った女性がいた。彼女はやさしさと厳しさを兼ね備え、どこか不幸さを感じさせながらも、昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし、栄華を極めた後、生活保護を受けるに至る波乱万丈の人生を歩んだ。そんな彼女を、人気漫才師中田カウス・ボタンのカウスが「今あるのは彼女のおかげ」とまで慕うのは、いったいなぜか。

『踊る菩薩』(小倉孝保著)は、一条さゆりの生き様を記録した作品で、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

沖縄の日本への復帰(1972年5月15日)直前、大阪で一条さゆりの引退公演が開かれた。彼女は「特出し」で人気絶頂期にあり、現役中からすでに伝説となった踊り子だった。宣伝用の赤いチラシには、「沖縄返還本土復帰記念特別出演」と印刷されたものもあった。ストリップと沖縄復帰。戦後日本を象徴する2本の糸が大阪で交差していた。

劇場のプロデューサーとして25年間ストリップ業界に身を置いた一色凉太は、この引退公演を見た。5月3日、大阪市福島区の吉野ミュージック劇場でのことだった。

「最初から計画していたわけではありません。そういえば、あの一条の引退公演があるなと思って、これは間違いなく彼女の舞台を見る最後になると思いましたので、開演前に行きました」

この日は新憲法が施行されてちょうど25年の記念日だった。ストリップで「自由」を確認するのも悪くないと一色は思った。大阪の最低気温は8.1度とやや低かったが、その後、気温は22.1度まで上がり、初夏らしい陽気となった。

一条の人気は小説にまで登場した。一色は当時、踊り子を連れ全国のキャバレーを回り、「フロアショー」と呼ばれる出し物に出演させていた。店から注文を受けた芸能事務所が一色にショーを発注し、それを受けた彼は踊り子と2人で店に向かう。1つの店で3日間、ショーを披露すると次に移動する。「流浪の民」さながら北海道から鹿児島までキャバレーを巡った。次から次へと仕事が入り、多忙な時期は、家族のいる東京に2年ほど、帰れなかった。

フロアショーの場合、夜は忙しいが、昼はさほどすることもない。大阪での仕事を前に、どうやって時間を潰そうかと考えていたとき、一条の公演を知った。

「彼女はすでに伝説になっていました。東京では見られない『特出し』です。公演中に(公然わいせつで)パクられるという噂もあり、最後にその芸を見ておいてもいいなと思ってね」

ストリップ界における彼女の人気は群を抜いていた。劇場関係者の間では、彼女1人でレスビアンショー5組をしのぐ客集めが計算できると言われていた。

すでに人気の高かった彼女を、「伝説」の地位にまで昇らせた要因の一つは東京大学講師、駒田信二が書いた小説だった。『小説現代』は70年7月号に「一条さゆりの性の深淵」、11月号に「一条さゆりの性の秘密」、翌年2月号に「一条さゆりの性の虚実」を掲載し、駒田はその後、「一条さゆりの性の」を通しタイトルに、「宿命」「波瀾」「休日」を書いていった。駒田は彼女にインタビューし、それを基に一連の小説を書いた。実話を基にしたフィクションだった。ストリッパーの生き様を東大講師が描いた点も話題となった。人気を集めるストリッパーは数多くいたが、その生き方が小説になった踊り子はいなかった。この連載が評判になり、一条は踊り子の枠を超えて社会的存在になった。

引退公演の2ヵ月前には、同じく人気絶頂の女優、藤(富司)純子が映画『関東緋桜一家』を最後に、引退を表明していた。NHK大河ドラマ『源義経』で共演した歌舞伎俳優、4代目尾上菊之助(現・7代目尾上菊五郎)と結婚したためだ。一条は藤をまね、舞台で緋牡丹の女博徒も演じている。銀幕と舞台の違いはあるものの、人気絶頂時期という点で両者の引退は共通していた。「一条引退」はある層にとって、「藤引退」と並ぶ、あるいはそれ以上の衝撃だった。

ストリップ史に刻まれるこの引退公演は入場料の点でも破格だった。大人1人、2500円。当時の物価を見ると、はがきが10円、国立大学の授業料が年間3万6000円、大卒初任給は5万4000円である。引退公演の入場料は現在(2022年)の価値では約1万円にもなる。実際、5~6月に東京・帝国劇場で開かれる東宝創立40周年記念公演『歌麿』のA席料金が2500円である。ストリップ劇場が帝劇と同じ料金をとるようになったのだ。