幻のスポーツカー「アフガン」:古賀卓氏の夢と情熱が生んだ一冊の物語

幻のスポーツカー「アフガン」:古賀卓氏の夢と情熱が生んだ一冊の物語

知られざる日本のバックヤードビルダー、古賀 卓氏

今となっては幻となったスポーツカーメーカー「KOGA CARS」の代表、古賀 卓氏。1台だけ製造された「アフガン」は、自動車愛好家の間でもほとんど知る人のいない幻のスポーツカーだ。この「アフガン」は、日本の一個人が構想・デザインし、1990年にアメリカ・カリフォルニアで完成した。当時は本気で量産・販売を目指したプロジェクトだった。AMWでは、現在日本でひっそり保管されているこのクルマと、生みの親である古賀 卓氏への取材に成功。知られざるストーリーを紹介する。

カーアクセサリー・メーカーの納屋に眠っていた謎の個体

このクルマに初めて出会ったのは、かれこれ11年あまり前のことだ。当時、とある車種専門誌の撮影でカーアクセサリー・メーカーの敷地にお邪魔して取材している最中、屋根つきの納屋兼ガレージの前を通りかかると、薄暗い中に、曲線美をまとった1台のスポーツカーが埃をかぶって無造作に置かれていたのに気づき、取材終わりにお願いしてそのクルマを見に納屋に戻った。

典型的なロングノーズ、ショートデッキというシルエットから、アメ車のクーペかと思ったのだが、フロントのオーナメントを見て、見たことのない車名に驚いた。「AFGHAN(アフガン)」という初めて見る車名と、その下に「KOGA CARS(コガ カーズ)」と記されたオーナメントを見て「これは何? オリジナル?」との疑問を、お邪魔していたメーカーの方に伺ったところ、昔社長がご自身でスケッチを起こして、イチから作ったクルマだと教えてくれた。

その時は残念ながらその場に社長がおられなかったので、こクルマに関してそれ以上のことが聞けずにいて、「いずれ取材させてください」とその場を去ったのだが、それから今に至ってしまった。意を決して、その時に訪れた「ズームエンジニアリング」の現社長の吉田氏に連絡し、当時の社長であり「アフガン」の生みの親である古賀 卓氏に、お話を聞きながらクルマの取材をすることが叶うこととなったのである。

大学生時代から自作スポーツカーをガレージで製作

まず「アフガン」を語るうえで、古賀氏のプロフィールを伺うことにしたのだが、聞き入るにつけ、古賀氏なくして、アフガンは誕生していないとの思いに至る。

まだ世の中に自家用車というものが普及する前の1950年代後半、古賀氏は大学生だった。この頃はスポーツカーのロータス「セブン」に憧れていたが、輸入車のスポーツカーなど高嶺の花で、一般の大学生にとって夢のまた夢。普通だと憧れのまま終わる話だが、古賀さんは「買えなきゃ作ろう」と思い立って、「ダットサン セダン」(おそらくダットサン112型)のシャシーフレームや860ccサイドバルブエンジンを使って、セブンに模した自作のスポーツカーを自宅のガレージで製作し始める。

知り合いに陸運事務所の方がいたので相談しながら書類を作りつつ、大学3年のとき完成させたクルマ「古賀スペシャル1号」は無事ナンバー取得となり、実際に通学で乗っていたので、当時のテレビ番組(NHK『私の秘密』)にも出演するほどの話題となったそうだ。

その後、大学卒業と同時にいすゞ自動車に入社し、購買部配属となる。その間も古賀スペシャル1号で通勤していたが、その後、請われて会社の後輩に譲ることとなる。

古賀氏自身は、いすゞに勤めながら次なるステップへ想いを巡らし、ホンダ「N360」の空冷エンジンを使って、独創的なデザインを用いた箱型の軽自動車を製作。「古賀スペシャル2号」が完成する。じつは当時、軽規格の手作り車はナンバー取得のハードルが非常に低く、古賀スペシャル2号車をマザーに量産化を目論んで、当時行われていたショーイベントにも出展していくほどの意欲をお持ちだったそうだ。

カロッツェリアワタナベの渡辺氏とともにカリフォルニアで製作

その後、古賀氏は6年勤めたメーカーを退社し、自らカーアクセサリー会社を設立。アフターマーケット向けにパーツ開発を行い、メーカーのオプションパーツまで手がけて事業を成長させていく。やがて、以前から思い描いていた、自身がプロデュースするクルマづくりを本格的に進めることにしたのが、会社設立から10年以上を経た1982年のことだ。

クルマのデザインスケッチを古賀さん自ら描き、かつて古賀スペシャル2号を出展していた東京レーシングカーショーで同じ出展者として知り合った「カロッツェリアワタナベ」に協力を要請。その後、渡辺さんがカリフォルニアに移転し、社名は「DUO POWER」に変更となるが、古賀さん自ら削って作った1/10スケールモデルをカリフォルニアの工房まで持参して、具体的な製作作業に入っていく。

古賀氏の頭の中にあった憧れのクルマはシェルビー「コブラ デイトナクーペ」で、それを元にさらに氏のイメージにもとづいてブラッシュアップさせたシルエットをそのままクレイモデルで3次元化。それをDUO POWERにて1/1サイズのクレイに起こしてボディデザインを確定させた。

クーペとオープンを着せ替え可能なギミックを採用

シャシーは角パイプをトラス状に組んだパイプフレーム構造とし、心臓部にはシボレー350 V8エンジンを置く。そのエンジンは前輪とバルクヘッドの間にレイアウトされるフロントミッドシップとなる。製作当初のトランスミッションはMTだったそうだが、完成後、日本に持ち込んで登録後にエンジン自体にトラブルが出て、同じエンジンに載せ替えする際に、ついでにトランスミッションもATへと変更されている。

このクルマの最大のトピックは、クーペからオープンカーへと着せ替え可能な脱着式ボディだ。日本でもかつて、日産が「エクサ」にクーペとキャノピーという脱着可能な2種類のボディを用意して販売していたことがあったが、ハードトップとオープンという、スポーツカー愛好家としてはいささか迷いどころのあるボディタイプを両方手に入れられる、当時としては画期的なギミックが取り入れられている。しかも、どちらのボディラインもグラマラスで、じつにカッコいいのだ。

バブル崩壊とともに量産計画は幻に……

初めてで試行錯誤しながら、自らの設計でオリジナルの本格的なスポーツカーを作り、これをアメリカで量産して販売まで行おうという壮大な計画のもと、プロジェクト開始から8年を経た1990年、ついにこのKOGA CARS「アフガン」が完成した。

ところが同年の暮れにラスベガスのSEMAショーにも出展した矢先、日本のバブル経済の崩壊とともに景気がみるみる落ち込み、量産のための資金はこのマザーカーの開発で枯渇してしまい、プロジェクトは幻に。残ったのはこのクルマ1台のみとなったのだ。

あの当時、もうあと1年、日本の好景気が続いていたら、アフガンというスポーツカーの運命はどうなっていたのか……? そんな想像を今なお駆り立ててくれるほど、この斬新なコンセプトのもと創り出されたスポーツカーのシルエットは蠱惑的であり、その生い立ちもまた、ひとつの時代の貴重な資料といえる。

結び

この記事を読んで、このクルマをそれなりに評価してくれる方がいれば、応相談でお譲りすることもできると、古賀氏は最後に話してくれた。古賀氏の情熱と創造力が詰まった「アフガン」は、日本の自動車文化の一部として、今でもその存在を放棄することなく、人々の心に残り続けることだろう。

犬塚直樹