「パリ五輪サッカー:大岩剛監督が明かすOA枠未使用の真相と日本代表の挑戦」
大岩監督率いる日本は、グループステージでパラグアイ、マリ、イスラエルをいずれも零封して3連勝で決勝トーナメントに進んだ。しかし、ベスト8で敗退し、メダル獲得の目標を逃すこととなった。この結果をどのように受け止めるべきか、また、オーバーエイジ(OA)枠を使わない決断の経緯について、8月いっぱいで代表監督を退任した大岩剛氏が語った。
この夏、パリ五輪に臨んだU-23日本代表は、日本サッカー界に一つの問いを投げかけた。グループステージで3連勝を飾り、無失点でノックアウトステージに進出したが、スペインに敗れてベスト8で敗退。目標としていたメダルを逃すことになった。
その理由はさまざま考えられるが、メンバー編成の面で多くの制限がかかっていたことも、その一つだろう。日本は3枠のOAを使わずに大会に臨んだ。1992年のバルセロナ大会以降、OA枠なしで臨んだ96年のアトランタ大会、2008年の北京大会はいずれもグループステージで敗退している。この点で、準々決勝に進出したパリ大会の日本は歴史を塗り替えたとも言えるが、金メダルを手にしたスペイン、銀メダルのフランス、そして銅メダルのモロッコはいずれも3人のOAを採用していた。
さらに、チームの立ち上げからメンバーに名を連ねていた鈴木唯人や鈴木彩艶、松木玖生らU-23代表の主軸を担ってきた選手も本大会に参加できなかった。取り巻く環境の変化によって、何人もの選手を招集できなかった。
パリ五輪終了から1カ月、代表活動を終えた大岩剛監督に改めて話を聞いた。大会に臨むスタンス、チーム作り、強化方針など、現場責任者の立場から感じたことを語ってもらった。
当初、大岩監督は40人から50人をリストアップし、OA選手の選考を行っていた。選考のポイントは「A代表でも主軸を担える選手であること」だった。OAとして加わる以上、他のU-23の選手たちを納得させる存在でなければならなかった。チーム構成上、これは重要な要素で、A代表の主軸を担い得る選手である必要があった。
「最初のレギュレーションでは早い段階である程度のリストを提出しなければいけなかったこともあって、リストアップをしました。いまA代表に選ばれている選手の中からオリンピックに来てくれるのであれば、一緒にやりたいという人をまず最初に出して、そこから個人的なアプローチに入っていく流れでしたね。それと並行してU-23アジアカップを戦っていたのですが、このグループに入ってくることで、U-23の選手たちもグッと上がっていくような人がいいとコーチングスタッフと話をしました。当然、移籍があったり、クラブの事情があったりで断念せざるを得ない選手もいましたが、中には『行きます』と言ってくれる人もいて。でもまだ、その時点ですぐに決められる状況ではなかったですね」
実際のところ、直接話した何人かのA代表の選手から積極的な返事をもらっていた。ある選手からは東京五輪での経験を聞き、OA選手の影響や世代の選手の心理面についても貴重な話を聞かせてもらったという。本人も出場に対して前向きな気持ちを持っていたが、この夏は移籍の可能性があり、結局パリ行きはかなわなかった。
「候補の中には僕の立場を尊重してくれた選手もいました。当初、本大会の登録メンバーは18人だったので(最終的には入れ替え可能な18+4人に変更)、OAを1人呼べるのか、2人なのか、3人なのか、それがまた複数ポジションできる選手なのかどうかで、U-23の選手も含めて構成を考えなければならない。経験ある選手だからそういう事情も察してくれて、『気持ちとしては行きたいですが、最後は監督の決断に従います』と言ってくれました。結局、彼もクラブの事情が許さなかったですが、そういう申し出は有り難かった」
20歳前後で海外移籍する選手が増え、さらにクラブで重要な存在となるケースも増えたことで、以前のように望む形で招集できなくなった。そしてオリンピック本大会はヨーロッパ主要リーグの開幕直前・直後の重要な時期に当たり、移籍期間中でもある。
「アジアでU-23のチャンピオンになったときには、リストから名前がほとんど消えていました。そのときにはもうアジア王者としてオリンピックに行こうという気持ちが固まりつつありましたね。いろいろと報道はありましたが、選手たちも気になるだろうし、どのタイミングで意思表示をするのかを考えていました。信頼しているぞ、ということをまっすぐ選手に伝えたいと思っていたので」
2024年5月にパリ行きの切符を手にした時点でリストに残っていたのは2、3人程度だった。程なくして、大岩監督の腹は決まる。6月、テストマッチのためにアメリカ遠征を行ったときには、OAなしでパリ大会に臨む決断をしていた。
大会終了後に開かれた日本サッカー協会の技術委員会でも、U-23代表を取り巻く環境の変化については議論されている。影山雅永技術委員長は、今後も継続的な議論が必要であると断ったうえで「勝利も選手の成長も求めたい」と話したが、パリ大会で直面したのは、それこそ両方を手に入れることの難しさだった。
大会に出る以上、まして日本を代表するチームとして出場する以上、結果が求められるのは当然だが、OAを組み入れたチームの編成やトップクラブに所属する海外組の招集は今後ますます困難になるだろう。クラブとのパイプの太さや交渉術の問題ではなく、夏季オリンピックの開催時期という動かしがたい現実が横たわっている限りは。
「今回はコロナの影響で予選の時期が1月開催から各国のリーグ戦、真っ最中の4月、5月にズレましたが、次回の予選はそんなことはないでしょう。それでも選手の招集に関して難しくなっていくのは間違いない。極端な話、オリンピックを成長の場と割り切ることだってありなのかもしれないし、それも含めて日本サッカー界としてどうしていくのか、話し合うことが必要だと思います。以前も言いましたが、ユニバーシアードという大学生の世界大会が無くなりました。これは極論ですが、アマチュアの大学生で臨むという考え方だってあるのかもしれない。可能性も含めていろいろな意見を出し合って日本サッカーにとってのベストを探ることが重要だと思います」
まだワールドカップに出場できなかった時代、1968年のメキシコ五輪において、日本は銅メダルを獲得した。以来今日まで、その事実は日本サッカー界の金字塔として燦然と輝いている。そしてこの偉大な記録を塗り替えることこそがあとに続く者の使命とされてきた。こうした歴史を考えれば、五輪を成長の場と割り切るのは難しいのだろう。
さらに言えば、そもそも日本人はオリンピック好きと言われ、大会期間中に大きな盛り上がりを見せる。サッカーの注目度も上がるため、メダル獲得を度外視するような方向に進むことは考えにくい。前述の影山委員長が何とも微妙な表現で「両方を目指す」と話したのは、そうした背景があるからだった。
今回は選手の頑張りと指揮官、スタッフの力によってチームはOA無しでグループステージ突破を成し遂げたが、同じような強化策、準備方法が続くとすれば、2028年のロサンゼルス五輪へ続く道も本大会も難しいものになるかもしれない。
「毎回、アプローチの仕方も異なるし、前例がそのまま生かせないのがオリンピック代表だと思います。僕のやり方が正解ではないと思いますが、どう取り組んでいくかについて、やはり指針みたいなものはしっかりあったほうがいいとは感じます」
2年半、たびたび起こったイレギュラーな状況の中で、その都度、招集できた選手たちとともに前進し続けた指揮官の言葉は重い。