引退と復帰を繰り返した五輪金メダリスト白井貴子の波乱のキャリア「私はバレーが好きだったわけではない」
1976年のモントリオール五輪で金メダルを獲得した元日本バレーボール代表の白井貴子さんは、現役生活で引退と復帰を何度も繰り返した波乱万丈のキャリアを持つ。1972年のミュンヘン五輪で銀メダルを獲得後、一度引退したが、1973年に再び現役に復帰。その後、モントリオール五輪で念願の金メダルを獲得し、2度目の引退を発表した。しかし、1977年に再び復帰し、ワールドカップで優勝。翌年、3度目の引退を宣言した。
白井さんは14歳でバレーボールを始め、15歳の頃から五輪での金メダル獲得を目指していた。中学時代はテニス部に所属していたが、バレーボール部への勧誘を受け、中2で転部した。17歳の時に実業団チーム・倉紡倉敷の監督の養女となり、本格的にバレーボールの道を歩み始めた。しかし、ミュンヘン五輪の前年に監督が解任され、練習の厳しさから一度は引退を考えていた。当時のユニチカの監督で全日本の監督でもあった小島孝治監督の言葉に励まされ、ミュンヘン五輪で銀メダルを獲得した後、引退を決意した。
引退後、生活費の問題やテレビで笠谷選手の活躍を見て、再びバレーボールへの意欲が湧き、1973年に日立に入社し、現役に復帰した。76年のモントリオール五輪で金メダルを獲得後、再び引退を発表。しかし、山田重雄監督からの誘いを受け、1977年に再び現役に復帰。ワールドカップで優勝し、翌年3度目の引退を宣言した。
白井さんは、引退後もドラマやバラエティ番組に出演し、現在は指導者や講演活動を中心に活躍している。彼女の経験は、アスリートの引退と復帰のタイミングについて多くの示唆を与えるものだ。