「キングダム」の天才軍師・昌平君の切なすぎる史実:「楚」と「秦」の命運を変える行動
映画『キングダム』シリーズやドラマ『始皇帝 天下統一』など、始皇帝をモデルにした映像作品が人気を集めている。特に、玉木宏さんが演じる昌平君は、秦の総司令として存在感を示している。
学習院大学名誉教授の鶴間和幸さんは、著書『始皇帝の戦争と将軍たち』で昌平君の生涯について解説している。昌平君は、楚の王室の公子でありながら、秦に仕えた重要な人物である。彼の名前は不明だが、秦の危機を救うために活躍した。
「君」という称号は、将軍武安君白起や長安君成蟜のように、高い爵位を持つ者に与えられるものである。昌平君は秦の相邦となり、嫪毐の乱で秦王を助けた。
楚の王室の出身者が秦に迎えられた例は、昭王の夫人・宣太后の一族がいる。彼らは、楚を攻撃し新市の地を奪うなど、自国の利益よりも一族の権力を維持するために行動していた。
孝文王の華陽夫人も楚の出身で、荘襄王と秦王政の初期に華陽太后として政権を握った。昌文君と昌平君も華陽夫人に従って秦に入り、昌平君は相邦に就任した。彼らは、華陽太后一族のために秦に仕えたというより、一族の利益のために行動していた。
孝文王が即位三日で死去し、華陽夫人は太后となった。秦王政が即位後も太后として影響力を持ち続け、始皇17年に亡くなった。秦王政の母も太后となり、二人の太后が存在した。
昌平君は、華陽太后が死去した後の始皇21年に楚の都の郢に帰った。楚では、幽王の死後、弟の哀王が即位したが、すぐに庶兄の負芻に殺され、王室は混乱していた。華陽太后という支えがなくなったことで、昌平君は秦に滞在する必要がなくなった。
始皇23年、昌平君は楚の将軍項燕に楚王に立てられ、秦に抗戦した。王室の一族として楚王に立てられた昌平君は、最期は楚のために秦と戦った。翌年、昌平君は死去し、項燕は自殺した。
睡虎地秦簡の『編年記』には、昌平君が始皇21年に楚に帰国したことが記されている。『編年記』は、秦が楚を占領支配した南郡の地方官吏の年代記である。昌平君が秦を離れて楚に帰国したことを記し、秦の地方官吏が警戒するほどの重要な人物であったことがわかる。昌平君は秦の内政を熟知した楚人だった。