エミー賞18冠の真田広之と追悼の日々:芸能記者の視点
エミー賞18冠に輝いた真田広之ら
10日ほどの間に、立て続けに追悼原稿を3本書いた。プロレスラー小林邦明さん、敏いとうとハッピー&ブルーの敏いとうさん、そして女子バレーボールの荒木田裕子さんだ。
年寄り記者の半ば宿命とも言える仕事だが、さまざまなことを考えさせられることも多い。芸能記者生活は長いが、音楽畑の人間からすれば「なぜ、お前ごときが」というところだろう。
放送、ドラマ、お笑い、その他もろもろの取材をしてきた身なれば、万が一に備えて自分が担当してきた人物の訃報に対する準備はそれなりにしている。対象の年齢が高くになれば、なおさらだ。
84歳で亡くなった敏さんの場合は、たった1度きり、1993年(平成5年)の正月恒例だったハワイ芸能取材で出会った。金銭問題で活動停止中だった敏さんが、ホノルル空港で活動再開を宣言。その夜、記者のホテルの部屋まで訪ねてきたので、あれこれ話をした。
金銭問題や反社がらみの話題もあり、書けないことも多かったが、思わず笑ってしまう話も多かった。借金に追われている時に、コンサート先の地方にいる先輩を訪ねて金を借りようとした話は傑作だった。後に借りられた方にも話を聞いたのだが、どちらも面白おかしく話してくれた。
68歳だった小林さんは、現役時代から大ファンのスターだった。引退して新日本プロレスの管理をしていた時に、担当として昔話をあれこれ聞く機会があった。初代タイガーマスクとの死闘などにより、伝えられていた大食い伝説、モテモテ伝説を直接聞く方が楽しかった。そして、担当を離れてからも、コンサート会場で顔を合わせることが多かった。日付が変わって誕生日を迎えた瞬間にお祝いの電話をくれたこともあった。
70歳、古希で亡くなった荒木田さんは、慣れないスポーツ取材に苦労する記者をサポートしてくれた。2010年(平成22年)にバレーボール女子日本代表が、世界選手権で32年ぶりにメダルを獲得した時は、練習、試合と素人のつたない質問にも丁寧に答えてくれた。そして「しっかり、書いてちょうだいね」と励ましてもらった。
昨年11月以降は、10日に1度の割合で芸能関係者の訃報が伝えられた。その度に少ない取材機会を思い出して、あれこれ書いてきた。そんな中で、明るいニュースが届いた。真田広之(63)が主演、プロデュースした「SHOGUN」がエミー賞で18冠を獲得した。
真田広之は、今世紀に入ってからは、活動の本拠を米国に移した。直接言葉を交わしたのは、もう30年以上も前になる。1991年にNHK大河ドラマ「太平記」で主役の足利尊氏を演じた時に、栃木・足利にできたオープンセットで話を聞いた。その後、1993年に主演したTBSの連続ドラマ「高校教師」が大ヒットしたが、相手役の桜井幸子にインタビューしただけだった。
それでも、真田広之には強い思い出がある。母校・日大芸術学部の1年で最大のイベント芸術祭だ。既に俳優としてバリバリと活躍していた真田は、芸術祭のオープニングでは「細工整代表、下沢広之君」とアナウンスされて鏡開きを行った。女子は大騒ぎ。「下沢さ~ん」の声援が乱れとんでいた。
昨年来、伊藤蘭、中井美穂ら、日芸出身者にインタビューするたびに、冗談交じりに“ポスト林真理子”の日大理事長就任を打診してきたが、言質を取られないようにシャレにならないくらいキッパリと断られてしまった。笑いにしてくれたのは、放送作家の高田文夫先生くらいだ(笑い)。
いつか“下沢先輩”に取材する機会があったらお願いしてみようかとも思うが、世界で活躍する先輩に日本の大学では役不足か。
エミー賞受賞で“世界のスター真田広之”は、やっと日本中に認知されたと言ってもいい。ある意味、これは新しいスタートだ。明るいニュースを、これからも書かせて欲しい。【小谷野俊哉】