山本昌邦NTDの時差調整策と、過去のトヨタカップから学ぶ日本サッカーの進化
10月3日に日本代表27名が発表され、11日のサウジアラビア戦と15日のオーストラリア戦に向けて準備が進められている。会見の最後で、山本昌邦NTDは選手の時差調整について言及し、「ヨーロッパの選手が日本にいる間、ヨーロッパ時間で生活できるように準備しています。朝食を抜いて、昼や夜の食事をヨーロッパ時間に合わせるようにしています」と述べた。
この措置は、選手が日本での試合後、所属チームに戻った際に時差ボケでコンディションを崩さず、それぞれのリーグ戦で活躍できるようにするためのものだ。近年の日本代表の主力は「海外組」が占めており、特に日本と中東の時差が少ないため、ヨーロッパ時間で生活した方が所属クラブに戻った際の影響が少ないという選手からの提案があった。
この発言を聞いて思い出されるのが、1981年に日本で始まったトヨタカップの初期の出来事だ。トヨタカップは1981年2月11日に始まり、それまでは「インターコンチネンタル・カップ」と呼ばれ、欧州のチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)と南米のコパ・リベルタドーレスの勝者が「クラブ世界一」の座を賭けてホーム・アンド・アウェーで争う大会だった。
しかし、南米勢のラフプレーに欧州勢が対戦を拒否し、チャンピオンズカップ優勝チームが出場を辞退したり、1975年と1978年には大会が中止になるなどの問題があった。こうした背景から、中立地の日本で一発勝負の大会として復活したのが「トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカカップ」だった。
記念すべき第1回大会は、ウルグアイのナシオナル・モンテビデオとイングランドのノッティンガム・フォレストが対戦。ノッティンガムはチャンピオンズカップを連覇し、GKピーター・シルトンやFWトレバー・フランシスといったスター選手を擁していたが、ウルグアイ代表ストライカーのワルデマール・ビクトリーノの一撃でナシオナルが初代王者となった。
続く第2回大会は1981年12月13日に開催され、トヨタカップは12月第2週の日曜開催が定着した。南米からはジーコ擁するブラジルのフラメンゴが来日し、対するヨーロッパ勢は3回のチャンピオンズカップ優勝を誇るイングランドのリバプール。FWケニー・ダルグリッシュら豪華な顔ぶれだったが、試合はジーコの3ゴールに絡む活躍でフラメンゴが3-0と圧勝した。
その後もトヨタカップは、CAペニャロール(ウルグアイ)2-0アストン・ビラ(イングランド)、グレミオ(ウルグアイ)2-1ハンブルガーSV(西ドイツ)、CAインデペンディエンテ(アルゼンチン)1-0リバプール(イングランド)と、欧州勢は5連敗を喫し、特にイングランド勢はノーゴールで敗れた。
当初は南米勢とイングランド勢のトヨタカップに賭ける熱意の違いが指摘された。南米勢は早めに来日して時差調整を行っていたのに対し、イングランド勢は英国時間で生活を続けていた。1試合のためだけに時差調整をすると、帰国後のリーグ戦に影響が出るため、英国時間で寝起きし、食事の時間もずらしていた。これでは12時キックオフの試合で身体が満足に動くわけがない。
日本代表は最近、選手の意見を取り入れて、睡眠時間や食事時間をヨーロッパ・タイムで過ごすことで時差調整を始めた。しかし、イングランド勢は40年以上も前から時差対策を採っていたことが分かり、驚かされる。トヨタカップよりもイングランド・リーグの方が重要だったことは、少し残念ではある。