「映画界のレジェンド」白鳥あかね:スクリプターから脚本家へ、その半世紀を超える軌跡【追悼】
白鳥あかねさんは、映画スクリプターとして約50年間活躍し、その仕事は撮影現場の記録や監督、役者、スタッフへの助言など、多岐にわたる。監督のそばに陣取り、カットの撮影時間、出演者やカメラの向きや動き、現場で変更されたセリフ、衣装や小道具など、現場のあらゆる情報を記録する。映画評論家の白井佳夫さんは、映画は台本の順番通りに撮られるわけではないため、スクリプターの役割が重要だと指摘する。白鳥さんは1932年に東京で生まれ、早稲田大学で仏文学を学んだ後、日活にスクリプターとして入社。小林旭主演の「渡り鳥」シリーズや吉永小百合が熱演した「愛と死をみつめて」などを手がけた齋藤武市監督に重宝された。
北川れい子さんは、白鳥さんが明るくサバササとしていて、監督に直言しても嫌みにならないと評価する。また、吉永小百合をロケ先で守る役を任された際、熱を出してしまい反対に看病してもらったエピソードもある。
1971年、日活は経営危機を打開するためロマンポルノの製作に転じた。予算が従来の4分の1に抑えられ、実質7日程度の撮影日数で10分に1回着衣なしの出演者を登場させる条件だったが、白鳥さんはその環境に懸けた。日活に残った人々には、これで生きていくしかないという覚悟と連携があった。
白鳥さんはスクリプター以上の役割も果たし、女優の片桐夕子が撮影で泣き出してしまうと、何時間も説得し、ラブシーンの演出も手伝った。神代辰巳監督と組む機会が多かったが、小沼勝監督や曽根中生監督に請われて脚本を書いたこともある。女の自立や芯の強さをさりげなく織り込んだ。
女優の風祭ゆきさんは、白鳥さんが監督と役者の間に立ち気を使ってくれ、男性が多い現場で役に集中できる雰囲気を作ってくれたと振り返る。また、一緒に仕事をしていない時でも、すれ違うと気軽に声をかけてくれて心強かったと語る。
1980年にフリーになった後も、仕事の依頼は途絶えなかった。日活の黄金期とロマンポルノ人気の双方を知る「映画現場の生き字引」として、特にテレビドラマ出身の映画監督や若い世代の監督にとってスクリプターを超えた得難い存在だった。
2004年までスクリプターを続け、その後も2010年まで映画の脚本を担当し、脇役で出演もした。2023年9月14日、肺がんのため92歳で逝去した。
2014年には『スクリプターはストリッパーではありません』を著し、ユニークな書名の由来は、スクリプターの師である秋山みよさんが、彼女をたしなめて発した言葉だ。ロマンポルノの撮影に協力してくれたストリッパーを招いた宴席で、感謝の意を込めて白鳥さんは上半身の服を脱いで踊り、喝采を浴びた。まさに「映画はチームで作るもの」を信条とした人らしい逸話である。