『虎に翼』:視聴者の心を揺さぶった社会派ドラマとその評価
『虎に翼』の放送終了とその評価
2024年4月1日から放送が開始されたNHK総合の連続テレビ小説『虎に翼』が、9月27日に最終回を迎えました。本作は、戦前、戦中、戦後の激動の時代を生き抜いた女性法曹の佐田寅子(伊藤沙莉)の生涯を描き、全130回の放送を終えました。この作品は、視聴者の考え方を大きくアップデートさせた一方で、後半部の展開については様々な意見が寄せられました。
前半部と後半部の評価
前半部:丁寧な描写とテーマの深さ
前半部では、佐田寅子が女学校時代から明律大学で法律を学び、戦後に判事となるまでの過程が丁寧に描かれました。物語の運びはスムーズで、テーマに対する描写力も高く、省略を駆使した映像処理が的確でした。この部分では、寅子の成長と挑戦がしっかりと描かれ、視聴者に深い印象を与えました。
後半部:駆け足の展開と批判
一方、新潟編以降の後半部は、SNS上でも「前半はちゃんとドラマしてたけど後半は箇条書き」といった批判的な意見が多く見られました。判事となった寅子が戦後の社会問題に果敢に取り組む一方で、あまりにも駆け足な詰め込み方が気になったという声も少なくありません。同性愛、夫婦別姓、原爆裁判、尊属殺の重罰規定の合憲性など、社会問題が次々と取り上げられ、視聴者には現代史の集中授業を受けているような印象を与えました。
社会派作品としての評価
『虎に翼』は社会派と呼ぶべき作品でしょうか?社会派という形容は、作品が社会問題に取り組んでいることを示す言葉ですが、筆者はこの形容の使われ方や言葉自体があまり好きではありません。社会に属していれば、誰もが社会派の側面があるはずです。なぜわざわざ社会派と形容する必要があるのか、逆に社会派ではない状態とはいったい何派なのか、という疑問が湧きます。
政治性と思想の押し付け
本作は、社会問題を次々と取り上げる作品態度から、社会派と形容することは容易に思えます。特に、第21週第101回ではオープンリーゲイ俳優を起用し、社会的な意義を示しました。しかし、そうした社会性に連動して、本作が政治的過ぎて思想の押し付けだとする見方もネット上ではさかんに言われていました。一般の視聴者から識者まで、さまざまな意見があり、中にはエンタメと政治は切り離すべきという暴力的な言い方までありました。
映像作品と政治的発言
映像作品に限らず、日本の音楽界でもアーティストが政治的発言をすると、すぐに批判の対象になることがあります。批判者は「音楽に政治を持ち込むな」と口を揃えて言いますが、これは非常に奇妙なことです。映像でも音楽でも、作り手が世界(社会)に属する限り、作品にはその人が社会をどう見つめ、考えているのか、その思想が意識的、無意識的に込められます。特に映像は、恣意的に切り取られたフレーム自体が政治的であり、自ずと社会派的な機能を内在しています。
映像表現の純粋な奉仕
後半部にも素晴らしい場面がありました。例えば、第18週第90回では、新潟編で寅子とのちに伴侶となる同僚判事・星航一(岡田将生)が、馴染みの喫茶「ライトハウス」で、戦時中に総力戦研究所の一員であり、戦争責任の一旦が自分にもあるのではないかと語る場面があります。航一が「外で頭を冷やしてきます」と言って外に出た際、頭上にわずかに降り積もった雪の粒が、本作最大の粒だちの美しさをたたえた場面でした。
また、東京地方裁判所所長、その後最高裁判所第5代長官になった桂場等一郎(松山ケンイチ)は、第1週第1回から一貫して厳粛な存在感を固定し続け、所長室や長官室の室内場面で孤独な演技を極めました。桂場の存在は、背景の説明が不要なほど、視聴者を納得させてしまう力がありました。最終週第129回では、退官した桂場が大好きなあんこ団子をゆっくり口に運び、寅子に見つめられながらその味を噛み締める姿が、特に際立つわけでもないのに、視聴者を納得させてしまう力がありました。
社会派と政治的立場の超越
社会派かどうか、政治的かどうか。本作でもっとも社会的な地位があり、政治的立場に置かれた人物である桂場等一郎が、実は一番それに縛られずに映像表現に純粋に奉仕する役割だったことこそ、特筆すべき事実だと筆者は思います。
結論
『虎に翼』は、戦前、戦中、戦後の激動の時代を生き抜いた女性法曹の佐田寅子の生涯を描き、視聴者の考え方を大きくアップデートさせました。前半部は丁寧な描写とテーマの深さが高く評価され、後半部は駆け足の展開と批判的な意見が寄せられました。しかし、社会派と呼ぶべき作品かどうかは、作品が社会問題に取り組んでいることを示す言葉として適切かどうか、その使用方法や言葉自体に疑問が残ります。映像作品は、社会に属する限り、その思想が意識的、無意識的に込められ、自ずと社会派的な機能を内在しています。本作の桂場等一郎の存在が、社会派と政治的立場を超越し、映像表現に純粋に奉仕する役割を果たしたことは、特筆すべき事実です。