《変革のヒットマン》青木宣親、後輩・武内晋一が明かすプロ野球生活の秘密と進化

《変革のヒットマン》青木宣親、後輩・武内晋一が明かすプロ野球生活の秘密と進化

青木宣親の21年間のプロ生活は、自由に打てない状況でも止まることを知らなかった。彼が積み上げたヒット数は日米通算2703本で、歴代6位にランクインしている。身長175cmとプロ野球の世界では小柄な部類で、宮崎県立日向高校時代は全国的には無名の存在だったが、なぜ青木は稀代のヒットマンとなったのか。

早大、ヤクルトで青木と公私をともにした後輩の武内晋一氏(現ヤクルト編成部)が、青木の成長過程を語る。

2002年に武内氏が早大に入学したとき、2学年上の青木は3年生となり、同年の春のリーグ戦からレギュラーを手にして1試合6得点のリーグ記録を作った。しかし、武内氏は当時の青木に特別な才能を見出さなかった。

「青木さんの同期には鳥谷敬さんや比嘉寿光さん、由田慎太郎さんなど、プロに行くような選手がいて、大学に入って印象に残ったのは鳥谷さんたちでした。青木さんもリーグ戦ではセンターで試合に出場していましたが、何かあれば外されるような立場でした。バッティング練習では、野村徹監督に逆方向に打つように言われ、三遊間にゴロを打つことが多かったです。目を見張る打球を打ったことはほとんどありませんでした。試合では巧さを感じる場面もありましたが、青木さんだけではなく、他の選手も同様でした。大学時代、バッティングで特別すごいなと思ったことはありませんでした」

武内氏は智辯和歌山高校2年時に夏の甲子園優勝を経験し、高校通算47本塁打、早大でも1年春からレギュラーに定着した世代屈指の強打者だった。しかし、青木に特別な才能を見出すことはなかった。野村監督も鳥谷などにはある程度自由に任せていたが、青木には厳しく接し続けていた。

「青木さんは他の選手とは違いました。守備のことでもよく口うるさく指導されていましたが、足が速かったし、野村監督は青木さんのポテンシャルの高さを感じてレギュラーで使いたいと考えていたんだと思います。ただ、当時は叱られ役のような感じで、プロでこれほどの成功を収めた今の青木さんからは想像もできないほど印象が違いました」

そんな中でも、青木はひたむきだった。武内氏の記憶の中で鮮やかだったのは、青木の練習姿だ。

「全体練習が終わった後、青木さんは室内で様々な練習を続けていました。ティーバッティングでは上から落とした球を打ったり、何種類もの方法で打ったり、他の選手とは違う練習をしていた印象が強いです。話をしていても、『体をこう使ったらバッティングはこうなる』や『インパクトのときにこういう形を作れれば、もう少し強い打球が打てる』など、常に様々なことを考えながら野球をやっていることが感じられました。練習量も多かったですが、その探求心はすごいものでした。しかも、野球やバッティングの常識に縛られることなく、自分なりの考えを持って練習していました」

青木は3年生の秋季リーグで首位打者を獲得。翌秋のドラフトでヤクルトから4位指名を受け、プロ入りした。2年後、武内氏も希望入団枠で同じユニフォームを着ることになった。春季キャンプで久しぶりに青木のバッティングを見た武内氏は、驚愕した。

「バッティング練習を見て、びっくりしました。打球の飛距離がすごくて、普通に引っ張って簡単にフェンスオーバーさせる。2年目には202安打も打っていましたが、ヒットを打つために様々なことを考え、打球の飛ばし方でも何かつかんだんだと思います。体も大きくなって、スイングも明らかに強くなっていました。大学のときもそのくらいのポテンシャルがあったかもしれませんが、2年間でこんなに変わるとは驚きました」

青木ほど「変われる」選手は珍しい。イチロー以来となる史上2人目の200安打超えを果たしても、満足することはなかった。

「すべてにおいて意識が高くなっていたと感じました。食事に行っても野球の話になり、どうやって活躍するかが常に頭にありました。最初はヒットをしっかり打って、それがある程度できたら強い打球を打って、長打も増やすというビジョンを持っていました。僕が入ったときは歯の矯正をしていて、2、3年かけて直していました。もちろんパフォーマンスを上げることに結びつけるためです。あらゆる角度から野球を考え、『絶対に、これ』ではない。今季でも、様々なバットを使ってみたり、毎打席で構えや打ち方を変えたりする。様々な形に変われるということが、青木さんの強みです」

うまくいく保証はないだけに、変えることにはリスクが伴い、勇気も要る。それでも青木は、高いレベルで安定した成績を出しつつ、踏み出していった。