大木金太郎VSアントニオ猪木:グアム特訓と犬猿の坂口征二との和解
1974年9月、グアム島でアントニオ猪木と大木金太郎の対決が行われた。この試合は、猪木と大物日本人選手の対決の第2弾として、10月10日に蔵前国技館で開催され、1万6500人の観客を熱狂させた。
大木は8月30日に新日本プロレスの後楽園大会に姿を見せ、全日本プロレスでは前座に甘んじていたが、猪木との絡みは単なる雑感原稿に過ぎなかった。9月10日、愛知県体育館に再び現れた大木はリングに上がり、マイクで「力道山先生のつくった日本のプロレスは今3つに分かれているが、誰が日本チャンピオンかわからない。私は(猪木の)NWF世界ヘビー級王座に挑戦する」と、一方的にタイトル挑戦を表明。猪木に挑戦状を手渡し、「挑戦を受けろよ」と捨てゼリフを吐いてリングを下りた。
2日後の12日、猪木は挑戦受託を発表し、アーニー・ラッドとの防衛戦が予定されていた10月10日の試合を大木戦に変更することを明かした。これを受け、大木は20日からグアムでの特訓を敢行。グアム第一ホテル(現在はフィエスタ・リゾート・グアム)のマネジャー石川さんが大木のファンで、トレーナー兼マネジャーとしてサポートした。石川さんは100キロの砂を入れた特製のサンドバッグを作成し、猪木のイラストと「破壊」という文字を描いた。大木は得意の頭突きやチョップを打ち込んだ。
29日の調印式では、大木がこの米袋を持参して披露し、猪木はニヤリと笑った。試合前日のテレビ中継では、両選手のインタビューが放送され、大木は「自分は『一発』という武器を持ってるだけに、どっちみち猪木を破壊してみせると。今夜はもう『一発』というのを狙ってるところです」と不慣れな様子で語った。一方、猪木は「とにかくこの一戦勝ちましてね、私の長年の希望であった日本統一というものを、早く確立したい」と落ち着いた様子だった。
試合では、大木の得意の頭突きを真っ向から受けた猪木が、「もっと来い」と迫力満点の挑発。大木は得意の一本足原爆頭突きを仕掛けようとしたが、猪木のパンチを食らい、最後はバックドロップでフォール負けを喫した。
この試合の企画者は、新間寿氏だった。新間氏は「大木さんの方からやりたいって言ってきた」と明かし、大木が韓国で試合をしたいと希望していたが、猪木から日本でやるようにと指示を受け、最終的に日本での試合が決定した。
大木と坂口征二との因縁も知られている。坂口は日本プロレスとテレビ中継の存続のために、猪木と話し合いを重ね新日本との合併を決め、新団体設立の発表までしていた。しかし、大木が強行に反対し、坂口、木村聖裔(後の健悟)、小沢正志(後のキラー・カーン)、大城大五郎の4人のみが新日本移籍という結末となった。
新間氏は坂口の説得が大変だったと振り返り、「猪木戦をやりますから」と説明すると、坂口は「冗談じゃない。私は絶対反対だ」と拒否。新間氏は「会社のこと考えてください。東スポの1面取ったり、ゴングもある。テレビ朝日も視聴率取れるカードじゃないですか。なんとか坂口さん、次はあなたを必ずなにかのビッグイベントで組むから了解してください」と説得し、坂口は納得したが、「私は大木とは会わない」と述べた。
新間氏は、坂口と大木の和解のためにある策を仕掛けた。千葉で坂口に「話があるので車じゃなく、電車で行きましょう」と誘い、後ろの車両に大木を乗せた。坂口を連結器のあたりに連れて行き、「ちょっと待っててくれ」と言って大木を連れて行った。坂口は顔色を変えて「なんだ新間さん。俺はこんな会い方なんかしたくないよ」と言ったが、新間氏は「電車の中で偶然会うっていうのもいいじゃないですか」ととぼけた。最終的に坂口も笑い出しちゃった。
大木は頭を下げ、「坂口さん。今までいろんなことで嫌な思いをさせて申し訳ありませんでした」と謝罪。坂口も「大木さんいいですよ。お互いリングの上でぶつかり合いましょう。これからよろしくお願いします」と応じた。
翌年のワールド・リーグ戦で大木と坂口は対戦し、喧嘩マッチとして知られるが、プロレスの範囲内だった。新間氏は「あんないい試合できるのか。アントニオ猪木ってすごいよね」と懐かしんでいる。
今月の10日でちょうど半世紀前の試合。今でも決して色あせない「至極」の名勝負だった。