落合博満と松井秀喜の4番争い:巨人の若手への苦言と真剣勝負の日々
1993年12月、40歳でFA宣言し、巨人に電撃移籍した落合博満。彼が巨人に在籍した3年間は、チームに大きな影響を与えた。特に1995年シーズン、原辰徳の現役引退に伴い、松井秀喜との「新四番争い」が注目された。
大学時代から巨人ファンだった原は、1995年限りで現役を引退する際、松井を後継者として指名した。原は最後の試合で「松井、打ってくれ」と願ったという。
一方、松井は阪神ファンで、長嶋茂雄の現役時代をリアルタイムで見ていなかった。1995年8月25日、落合が故障欠場した際、松井はプロ初の四番に座った。しかし、彼は「ボクなんか、アルバイトみたいなもん」と謙遜し、あくまで代役の四番バッターだった。
1995年、松井は打率.283、22本塁打、80打点を記録し、チームは3位に終わった。シーズン終了後、松井は自費で北野明仁打撃投手と契約し、徹底的に練習に打ち込んだ。長嶋監督は秋季キャンプで松井をキャプテンに指名し、「肩書きを付けることで自覚を持ってもらう」と意気込んだ。
1995年の秋季キャンプでは、42歳直前の落合が志願参加し、「絶対に邪魔はしません」と3週間、1日2~3時間もカーブマシンを打ち込んだ。落合は、シーズン中に変化球が見えなくなったことを修正するために参加した。長嶋監督は、落合が松井に対して「4番はやすやすとは譲れない」という強い気持ちがあると見ていた。
松井も、落合から4番の座を奪いたいという気持ちを明確にした。「4番は、落合さんのいるうちにとりたい。絶対に実力で4番をとりたい」と語った。落合は、1995年の年末に酵素ドリンクによるファスティング療法を敢行し、96年の春季キャンプでは万全の体調で臨んだ。
2月19日、宮崎の清武町で行われた「交通安全のつどい」で、落合は「今の若手は練習をやらされている」と巨人の甘えの体質を批判し、松井に対しても「四番を打つべき」と言及した。長嶋監督は、落合の姿勢を「非常に不気味」と冗談交じりに評価したが、マスコミは二人の不仲を煽った。
しかし、実際には、二人の関係は周囲が知らない意外な場所で繋がっていた。