ドキュメンタリーの真実:監督の意図とフィクションの魅力
ドキュメンタリーはフィクションである
映像コンテンツに詳しいライター・編集者の稲田豊史氏は、ドキュメンタリーがフィクションであると強く主張する。彼によれば、ドキュメンタリーにはお笑いやプロレスも含まれるという。その真意は何か。稲田氏が寄稿した内容を基に、この議論を深めていきたい。
ドキュメンタリーは「客観」「中立」ではない
稲田氏は、今月『このドキュメンタリーはフィクションです』という題名の本を出版した。フィクションとは「虚構」のことであるが、このタイトルだけを見ると「は?」という反応を引き起こすかもしれない。しかし、彼の主張を聞いてみよう。
ドキュメンタリーは一般的に、「虚構を用いずに、実際の記録に基づいて作られたもの」と定義される。多くの人々は、ドキュメンタリーを「脚本や仕込みのない、事実のみを記録した映像」「客観性や中立性が守られる」と認識している。しかし、稲田氏はそのような見方は誤りだと指摘する。
現代において、記録映像が客観的でも中立的でもないことは常識だ。同じイベントに参加した100人が各々その模様をスマホで撮影しても、100通りの映像が生まれる。これは、ワイドショーでよく見かける街頭コメントでも同様である。番組内容に沿う一言だけを文脈無視で切り出したテロップが、視聴者を誤導する問題も珍しくない。
つまり、ドキュメンタリー監督は「この被写体、この事象を、観客に対してこういうふうに印象づけたい」という確固たる意図のもと、撮影し、素材を選び、編集している。ドキュメンタリーは「報道」ではない。作り手の「意図まみれ」である。
ここで、ドキュメンタリー批判をすることが稲田氏の目的ではない。むしろ、「意図まみれ」だからこそドキュメンタリーは面白いという主張を展開するための記事である。
監督の意図に注目すると、ドキュメンタリーは俄然面白くなる
監督の意図に注目すると、ドキュメンタリーは俄然面白くなる。いくつかの具体的な例を挙げてみよう。
- 『FAKE』:森達也監督がゴーストライター騒動で注目された佐村河内守に密着した作品。佐村河内が長らく作曲をしていないという状況を打破するために、森は彼に作曲を提案し、その過程を撮影した。
- 『アメリカン・マーダー』:Netflixの衝撃作。殺人事件の真相を追う過程で、監督の意図が明確に感じられる。
- 『ザ・コーヴ』:太地町の捕鯨問題を扱った作品。監督の意図が強く反映され、問題提起の力が強い。
- 『主戦場』:従軍慰安婦問題を扱った作品。監督の視点が明確で、深い議論を誘発する。
- 『さよならテレビ』:東海テレビがテレビ業界の暗部を自己総括した作品。監督の意図が明確に感じられる。
これらの作品は、取り上げられている題材だけでも興味を惹くが、それ以上に「客観的でも中立的でもない」点が魅力的だ。監督の意図も作為も、すべては映像作品として「面白く」するために仕込まれる。これは、作られた物語〈フィクション〉が、主題の設定から構造、展開、細部の描写に至るまで、物語を「面白く」するために作り手の作為によってもれなく制御されていることと、なんら変わらない。
つまり、ドキュメンタリーとフィクションの境界線は実に曖昧だ。その意味で、ドキュメンタリーはフィクションとなんら変わらない魅力を放っている。
「水ダウ」は撮影者が被写体に関与する典型
ドキュメンタリーには大きく2つの型がある。「非関与型」と「関与型」だ。
- 非関与型:撮影者が被写体に極力関与しない状態で観察・記録に徹するもの。ネイチャーものや、撮影者が被写体に対して具体的な行動を要求しないタイプの人物ドキュメンタリーなどがこれにあたる。
- 関与型:撮影者が被写体に働きかけることによって発生する状況や反応を記録するもの。監督の「意図」が直接的に被写体に行動を促すため、ますますフィクションとの境目が曖昧となる。
「関与型」の傾向が強いのが、森達也のドキュメンタリーだ。森は、ときに撮影対象を挑発したり怒らせたりすることでその反応を撮るばかりか、自ら積極的に「面白くなりそうな状況」を仕込むこともある。たとえば、『FAKE』の終盤、森は長らく作曲をしていないという佐村河内に「作曲しませんか?」と提案し、作曲させる。監督自ら、「面白くなりそうな状況」をゼロイチで作ったのだ。
被写体に積極的に関与し、仕掛け、その反応をカメラに収める。実はこれ、『水曜日のダウンタウン』(以下、『水ダウ』)のようなお笑い番組の「ドッキリ」企画とまったく同じアプローチだ。そう、『水ダウ』は、明らかに関与型ドキュメンタリーの一形態である。
『水ダウ』のスタッフは人為的に「面白くなりそうな状況」を用意する。結果、ドッキリにかけられた芸人の「面白い反応」が見世物として価値を持ち、ときに時代を映した批評性を帯びたりもする。
たとえば、2022年4月27日に放送された「若手芸人コンプライアンスでがんじがらめにされても従わざるを得ない説」では、街ロケに繰り出した芸人コンビ・そいつどいつに対して、現場スタッフが滑稽なほどに過剰な「コンプライアンス遵守」を求めた。店員にいちいち「反社ではないですよね?」などと確認を取らせたり、「鯛焼きを頭から食べると残酷に見える」という理由で尻尾から食べさせたり。最初は我慢していたそいつどいつの2人だったが、最終的にはスタッフに対して「マジつまんくなってきたなって思いますね」と異議を唱えた。
今年8月28日に放送されて物議を醸した「コロナ対策、いまだに現役バリバリの現場があっても従わざるを得ない説」もそうだ。これはフェイスガードや大声を控えるといった「過剰な」コロナ対策を芸人たちに強要させるドッキリで、当時の感染対策の「奇妙さ」を笑い飛ばす内容。当然ながら批判も相次いだが、一方で、批評的意図も透けて見える。
そもそもコロナウイルス感染症は、2023年5月から法的に「5類感染症」の扱いになっただけで、その日を境に突然「安全」になったわけではない。つまり、状況は劇的に変わっていないはずなのに、人々の「習慣」だけが激変した。その茶番感、そしてたかだか2年前には、誰も笑わず大真面目にやっていたことを再演するだけで、馬鹿馬鹿しい笑いに「なってしまう」という状況の構築に、意図的な皮肉が込められていたーーとは言えないか。
プロレスの「アングル」という名の「仕込み」
一方、プロレスにもドキュメンタリーとの共通点がある。プロレスには「アングル」という概念がある。アングルとは選手同士の因縁やリング外での抗争にまつわる筋書きのことだが、これは言ってみれば興行側の「仕込み」だ。しかし、だからといって試合自体が虚偽ということを意味しない。アングルは、各選手の魅力を引き出すために存在しているからだ。
関与型ドキュメンタリーも同様。監督がある意図をもって状況に変化を加えるべく「仕込んだ」としても、それをもって即「事実に反する。虚偽だ」とは言わない。それは被写体の本質を引きずり出すための工夫のひとつなのだから。ドッキリにかけられた芸人が思わず「素」をさらしてしまうのと同じである。
仕込みがあったとしても、鍛え上げられたプロレスラーの肉体も受ける痛みも本物。被写体(や芸人)が咄嗟に見せる表情や発する感情も本物。そこに偽りはない。我々はそこに興奮する。
お笑いもプロレスも、観客側の了解事項と高いリテラシーがあってこそ、十全に楽しめるエンタテインメントだが、それはドキュメンタリーも同じ。「監督の意図まみれで、公正でも中立でもない」ことをわかっている観客が、最も楽しめるのだ。
結論
稲田豊史氏の主張は、ドキュメンタリーが「客観」「中立」ではないことを強調し、その「意図まみれ」が魅力の源泉であることを示している。ドキュメンタリーは、監督の意図によって作り出される「フィクション」であり、その中で被写体の本質が引き出される。『水ダウ』やプロレスの「アングル」も、同様の手法で観客を楽しませている。観客がこれらの意図を理解し、高いリテラシーを持つことで、最も深い楽しみを得ることができる。