「25歳からのプロ野球人生」落合博満の驚異的才能とロッテへの道
1978年のドラフト3位でロッテオリオンズに入団した落合博満は、25歳でプロ野球の世界に足を踏み入れた。1993年12月、40歳でFA宣言し、巨人へ電撃移籍した落合の3年間は、巨人にとってどのような意味を持っていたのか。この問いに答える書籍「巨人軍vs.落合博満」が発売される。
落合のプロ入り前は、18、19歳の頃、ニートのような生活を送っていた。1973年11月1日、東芝府中野球部のセレクションに合格し、20歳で臨時工として入社。当時の監督、武田泰紀は、落合の打球の勢いと飛距離に驚き、すぐに四番に抜擢した。落合は同期の新人よりも年上だったが、練習には皆と同じように参加し、最初の頃はグラウンドを30周走る際によく吐いていた。
電力システム制御部で8時から17時まで働いた後、練習に励んだ。同僚との麻雀も楽しんだが、自由人の落合は1年で辞めようとした。しかし、姉の説得により踏みとどまり、初任給3万5000円から5年後の10万8000円まで昇給した。
日々の練習で身体が研ぎ澄まされ、落合のバットは凄味を増した。ライト側に打球が飛びすぎて防球ネットを飛び越えることが多かったため、東芝府中のグラウンドには「落合ネット」が設置された。1976年のオープン戦では4打席連続ホームランを達成し、都市対抗野球の予選決勝では3ランを放ち、日産を破って夏の本戦に出場。社会人時代は5年間で打率.389、70本のホームランを記録し、世界選手権では全日本の三番を打った。
1978年のドラフト会議では、江川卓の「空白の1日」で揺れる中、ロッテオリオンズから3位指名を受けた。前監督の金田正一が「狭い球場に本塁打を打てる選手をとれ」と厳命し、社会人屈指の飛ばし屋・落合がリストアップされた。前年は阪神から誘いがあったが、守備と肩に不安があったため評価は高くなく、ロッテも菊地恭一を2位指名していた。しかし、スカウト部長の三宅宅三は、東芝府中の関係者から「落合の方が上だ」と言われた。この年のロッテは、菊地と4位の武藤信二が入団拒否し、4人中2人が入団拒否という不人気ぶりだった。24歳の落合は、プロだったらどこでも行くつもりだった。「契約金は問題じゃない。私はただプロでやりたいだけです」と宣言し、球団側を驚かせた。
プロ1年目、落合は三塁手として出場機会を増やすため、慣れない二塁守備に挑戦。イースタンでは打率.324、8本塁打、40打点の好成績を残し、一軍ではデビュー3試合目にプロ初アーチを放ったが、36試合で打率.234、2本塁打に終わった。2年目の1980年、先輩キャッチャーの土肥健二のスイングを観察し、手首の使い方を取り入れた。打球に鋭さが増し、手応えを掴みかけた矢先、春のオープン戦で左ヒザを打撲し、戦線離脱。それでも、ベッドの上で鉄アレイを握って筋力トレーニングに励んだ。
1980年5月14日、イースタンの大洋戦でベテランの佐藤道郎と対峙し、会心のホームランを放った。この一発でモヤモヤした気分が晴れ、一軍への昇格を誓った。直後にイースタン新記録の5試合連続アーチを達成し、ファームで34試合に出場して11本塁打を放ちホームラン王に。後期には一軍で起用され、シーズン第1号は代打で鈴木啓示から左中間席へ弾丸ライナーを叩き込んだ。
ロッテの山内監督は、育成管理部次長の高見沢喜人から「落合を使ってほしい」と推薦を受け、2年目シーズンは57試合で打率.283、15本塁打というまずまずの成績を残した。翌81年開幕戦では「七番二塁」で先発出場し、1号アーチを含む3安打を放ち、勝利打点をマークする上々のスタートを切った。
ロッテが優勝を飾った前期シーズンは、打率.317、15本塁打、45打点でホームランと打点はチームトップ。無名の国産大砲として、野球ファンを驚かせた。1981年、落合の底知れぬ才能が開花しようとしていた。その時、カクテル光線に照らされた超満員の後楽園球場に、ひとりの男が颯爽と出現した。それが「長嶋二世」と呼ばれるゴールデンルーキー、巨人の原辰徳だった。