長崎スタジアムシティ「ピーススタジアム」: 被爆地から生まれた平和への祈りとサッカーの新たな舞台
10月14日に開業する長崎スタジアムシティの中核となるサッカー場は「PEACE STADIUM(ピーススタジアム)」と名づけられた。原爆投下から79年。被爆の記憶を刻む土地に建てられた新しい施設には、平和への願いが込められている。
サッカーJ2のV・ファーレン長崎の新たな本拠地となった「ピーススタジアム」。14日に開業する複合施設「長崎スタジアムシティ」のメインとなるサッカー場だ。初の公式戦には1万9011人の観客が詰めかけた。
総工費約1000億円をかけた複合施設を手がけるジャパネットホールディングスの高田旭人社長は、こけら落としとなる試合の挨拶で「元々この場所には戦争の兵器がつくられていた工場があった。ここで被爆された方もいる」と、開業への期待とともにこの地に刻まれた記憶に触れた。
長崎市幸町は、爆心地から約1.7kmに位置し、かつて三菱重工長崎造船所の工場があった場所だ。99歳の山下正英さんは、当時この場所で働いていた。山下さんは三菱長崎工業青年学校を卒業後、船のエンジンなど機関部に関わる仕事に携わっていた。79年前の8月9日、原爆が投下される1時間半ほど前に避難するように言われ、対岸の雑木林に同僚と身を寄せた。爆発の衝撃を受け、その後の惨状を目の当たりにした。
工場長の指示を受けて、山下さんは仲間と浦上川を泳いで工場に向かい、数時間前と全く異なる光景を目の当たりにした。鉄筋の部分は鉄骨だけが残り、木造の部分はがちゃがちゃと崩れていた。隣の兵器工場は燃えており、倒れた人々を助けられなかったことを悔やんでいる。
建設途中で見つかった焼け残った構造物は、原爆の直爆を受けた工場の一角に「福岡俘虜収容所第14分所」が置かれていた。長崎市によると、原爆投下時にはオランダ人やイギリス人など約200人が収容されていた。8月1日の空襲で壊された建物の後片付け中に8人が原爆の犠牲になったとされている。
2022年、収容所の跡地周辺で基礎部分とみられるれんが積みの構造物などが見つかった。長崎スタジアムシティの工事中で、当時現場を確認した長崎市は、見つかった構造物などに熱線によるすすの付着や爆風によるひび割れなど「被爆の痕跡が確認できない」として、保存が必要な被爆遺構に当たらないと判断。これをもってジャパネット側は遺構を保存しなかった。
長崎の被爆遺構を保存する会の代表などは8月、長崎市に経緯の説明を求めた。代表は「彼らにとっては墓標」「外国人の被爆者、特に捕虜が被爆された非常に大きな問題を秘めている。被爆の痕跡があったかないかだけで判断されるのは問題じゃないか」と指摘した。市に対し、被爆遺構の保存について定められた基準に則るだけでなく、歴史的な背景など幅広い観点で判断してほしいとしている。
「ピーススタジアム」の周辺には原爆の被害を示す案内板があるが、平和への思いはスタジアムの名前に込められている。高田社長は初試合の前に観客に語った。「長崎で生まれた身として、長崎で生まれた企業として“平和”という言葉を大事にしたい。それだけではダメだと思い、この町につくったスタジアムの名前についてソフトバンクに相談して“PEACE STADIUM Connected by SoftBank”という名前を付けさせてもらった。こちらも皆さん身近なものにしてください。」
観客は「長崎は平和が象徴されるので理想的なスタジアムだと思う」「ここで亡くなった人いる中で、平和な中でサッカーが観られるのは本当に幸せだと思う」と話し、ドイツ出身の外国人も「長崎に合うと思う」と長崎と平和を重ね合わせた。
被爆の物言わぬ証人とも言える「被爆遺構」の保存をめぐっては、スタジアムシティの建設は検討のあり方を改めて考える機会になった。一方、被爆80年を前に長崎と広島、2つの被爆地に誕生したスタジアムの活用を通じて、被爆地や市民レベルでの連携をさらに深め、平和を育む場としての期待も寄せられている。