『ぼくのお日さま』:奥山大史監督の独自視点と表現力が紡ぎ出す、新たな映画体験
奥山大史監督の最新作『ぼくのお日さま』は、不思議な魅力を持つ作品だ。構図や照明、色彩設計から役者の細かい所作まで、画面の隅々まで監督の意志が反映されている。その一方で、偶然の奇跡のような美しい瞬間が何度も立ち現れる。リアリズムが徹底されているにもかかわらず、ファンタジー作品のような感触と余韻が残る。
奥山監督は、監督、脚本、撮影、編集を一人で手がけ、作品の全貌を掌握している。インタビューでは、彼の明確な回答が得られ、彼の特異性が言語化されたテキストとなっている。しかし、作品の魔法のような輝きは、それだけでは簡単に理解できるものではない。
『ぼくのお日さま』は、奥山監督の長編2作目であり、商業映画としてはデビュー作。彼はこの作品で、比類のない作家性を確立した。監督は、映画祭を「ゴール」ではなく「スタート地点」と位置付け、国内外の観客に作品を届けることを目指している。コロナ禍以降、日本の映画界でオリジナル作品の居場所が減少している中、『ぼくのお日さま』は重要な一作と言える。
奥山監督は、高校生の頃に演劇に目覚め、その後映画制作に興味を持った。大学では映画のプロデュース論や広告論を学び、映画美学校にも通い、実作に取り組み始めた。『僕はイエス様が嫌い』は、青学での卒業制作として制作された。『ぼくのお日さま』では、前作でやりたかったができなかったことを実現し、特に大人の視点やリアリティのあるセリフの描写に挑戦した。
『ぼくのお日さま』の時代設定は2001年頃だが、作品の中で明示はせず、観客に自由な解釈を許している。衣装や小道具は当時のものを再現し、観客に普遍的な印象を与えることを意識している。
奥山監督は、映画祭を作品のスタート地点と捉え、国内外の観客に作品を届ける計画を立てている。前作『イエス様』の経験を活かし、プロデューサーや配給会社と協力して作品を広めている。
今後、フィルムでの撮影にも挑戦したいと考えているが、現実的な制約があるため、デジタルでの表現に注力している。作品の結末については、登場人物たちの傷つきや別れを描きつつ、希望を感じさせる終わり方を選択した。
奥山監督は、映画が観客を傷つける可能性があることを認識し、その痛みを描くことで観客を癒すことができるという考えを共有している。